多くの思いを乗せて描く、人生の最終章。
長浜から、すべての「縁(えにし)」を未来につなぐ。

約40年にわたりマナーやコミュニケーションの講師を続けてきた藤居寿美子さん(70歳)。現在は「和の叡智・玉手箱講座」を主宰し、日本の文化や歴史を背景にした講演が好評を博しています。「年齢を重ねるほど経験と学びが深まり、伝えたいことはますます増えていく。仕事で得た体験を皆さんにお伝えすることが私の使命」と語る藤居さん。生まれ育った滋賀県長浜市に戻って13年。原点の地で描く未来とは――。
29歳でマナー講師として独立
琵琶湖の北側に位置する長浜市は、羽柴(豊臣)秀吉が初めて城持ち大名となり開いた城下町。商人の町として栄え、今も歴史の香りを色濃く残すこの地で、藤居さんは昭和29年(1954年)に生まれました。もともと海産物問屋だった実家は間口が広く、純喫茶と中華料理店を営んでいました。
「私が幼稚園の頃には、すでに自宅にテレビがありました。プロレスの力道山の試合が放映される日は、近所の人が大勢集まってきたんです」と藤居さんは懐かしそうに笑います。
二人姉妹の長女として、「家を継ぐこと」を期待されながらも、心のどこかには「結婚して家庭を持ちたいけれど、外に出て他の世界を見てみたい」という思いが芽生えていました。20代前半、何気なく受けた適性検査の結果は「口を使う仕事が向いている」というもの。フランス料理を学んだ経験、高校時代に謝恩会で有志を集めて演劇をした記憶が重なり、「食べ物のこと? 演劇? それとも人前で話すこと?」と想像が広がりました。

運命の転機は23歳のときに訪れます。妹が大学でマナーを学んでいると知った瞬間でした。
「これだ!と直感しました。まだ誰も専門にしていない。今から学んでも十分に追いつけるし、むしろ年齢を重ねるほど価値が高まるに違いない、と」
すぐさま全日本作法会の門を叩き、礼儀作法を基礎から学び、総師範の資格を取得。兵庫県西宮市の妹の下宿先に身を寄せ、会長のアシスタント、いわゆる「カバン持ち」として徹底的に現場を経験します。会長の方針は「これからはビジネスマナーが重要になる」。その先見性に触れるなかで、仕事の世界が大きく広がっていきます。
当時、マナー講師の多くは主婦。独身で身軽だった藤居さんには、地方への出張という新しいチャンスが巡ってきます。鹿児島のテレビ局では15分間の帯番組を任され、全国を飛び回る日々。しかし、その活躍ぶりが会の内部で反発を招き、やがて独立を決意。
29歳、大阪・梅田駅近くに自らの事務所を構えたのです。
一歩ずつ積み上げた信頼は独自のスタイルへ
最初に舞い込んだ仕事は、かつて勤めた会社の上司からの紹介でした。兵庫県警の警察官を対象に、市民への接し方を教える講座です。この仕事は30年も続くことになります。
「事務所を立ち上げた当初は、一人で細々と続けていければいい、そんな気持ちでした。でも、全日本作法会時代に教えていた生徒さんたちから“先生に教えてほしい”という声が集まり、講座を開くことになったのです。しかも、彼女たちは病院や銀行など、私の仕事先まで探してきてくれて。周囲の力に支えられたスタートでした」
バブル期に入ると仕事は急増。多いときは8校を掛け持ちし、企業や学校で講義を行いました。その一方で「現代にそぐわない作法を教えることへの迷い」や「生徒たちの悩みにもっと深く応えたい」という思いが芽生え、40代半ばには心理学を学びました。以後、藤居さんの講座は、マナーと心理学を組み合わせた独自のスタイルへと発展していきます。

時代とともに変化するマナー、その背景も伝える
バブル崩壊後の社会は効率主義に傾き、企業からはマニュアル通りの指導が求められるようになりました。それでも藤居さんは「型」だけにとどまらない講義を工夫し続けます。現在では新入社員研修はもちろん、カスタマーハラスメント対応やインターンシップを控えた学生向けの講座、さらには「女性の品格」といったテーマまで、依頼内容は多岐にわたります。
「マナーは時代とともに変化します。日本語では『作法』にあたり、漢字の意味から解釈すると、『作』は行動する、『法』は考える。すると『今、何が一番大切かを考えて行動すること』と捉えられます。それは、思いやり、気くばり、心くばりのこと。基本は変わらないけれど、今の時代にどう活かしていくかを知ることが喜ばれると思っています」
食事作法を例に取れば、箸食・ナイフとフォーク食・手食という世界の三大食法を紹介し、日本がどのような立ち位置にあるのかを歴史的に語ります。それは単なるルールの暗記ではなく、文化の理解につながります。また、「挨拶はしたほうがいい」という当たり前のことも、心理学の視点で解説すれば納得感が増し、行動に結びつきます。
さらに、藤居さんには日本語への深い敬意もあります。
「母音だけで成り立つ日本語は、音そのものが季節感やおもてなしの心を形づくってきました。言葉の背景を知れば、日本語をもっと大切に思える。そんな視点も伝えたいのです」

終戦から80年、心結び師として未来に残すこと
第二の大きな転機は58歳。パートナーを突然亡くし、関西で暮らす理由を失った藤居さん。加えて親の老いも重なり、故郷・長浜へ戻る決断をします。
コロナ禍で講演や講座ができなくなったとき、人に勧められてオンラインの講座「和の叡智・玉手箱講座」をスタートしました。日本の歴史を調べていたとき、終戦直後に日本が分断される危機があったことを知り、衝撃を受けるとともに学ぶことの大切さを痛感しました。
「私が生まれたのは終戦から9年後。今思うと恵まれた環境でした。一方、戦争によって家を継ぐはずだった男性たちが亡くなり、後継者と期待された私は結婚をせず、子どももいない。私は何を残せるのか、ずっと考え続けてきました」
長浜に戻ってきたことを前向きに受け止められない時期もあったといいます。3年前、コロナ禍で母を見送り、父の介護が負担に感じたことも。そんな折、開いたのが『モラロジー』という本でした。道徳を科学的に研究、実践する内容です。そこに「先祖は血の中に生きている」という一節を見つけました。
「研究半ばで亡くなった大叔父が学んでいた本でした。私は仕事を使命と感じてきたけれど、それは先祖からのメッセージだったのかもしれない。そう思うと、不思議と心が軽くなったのです」

振り返れば、藤居さんは滋賀県下の自治体で職員研修を長年担当し、近江商人の発祥地・近江八幡では市職員全員を指導していました。福祉協議会や病院の研修も受け持ち、地域社会の人材育成に深く関わっていたのです。
「曾祖母の母が近江八幡から長浜に嫁いできたこともあり、この地で果たすべき役割が私にはあるのではないかと、今は自然に思えます」
秀吉が草履を懐で温めて信長に認められた逸話や、石田三成が「三献の茶」で秀吉の目に留まった話など、人間関係を象徴するエピソードが長浜には数多くあります。それらは藤居さんのテーマである「おもてなし」や「マナー」と深く重なり合っています。
「今までの学びと経験が、すべて結びついてきています。日本の歴史、先人が果たせなかった思い、そして私自身の体験。それらを今につなぎ、人と人、心と心を結ぶ“心結び師”として生きることが、私のあり方だと感じています」
藤居さんの願い、理想の未来とは?
「人が縁(えにし)を通して、今、ここにある幸せに気づくこと。そうした人が増え、社会全体に幸せが広がっていくことです」。
近江商人が大切にした「売り手よし、買い手よし、世間よし」の“三方よし”の哲学。その精神は藤居さんのDNAに刻まれ、地域社会への貢献、そして次世代へと受け継がれていくのです。

取材・文/高井紀子

藤居寿美子(ふじい すみこ)
1954年、滋賀県生まれ。武庫川女子短大卒業後、菓子メーカーに就職。 23歳から全日本作法会で学び、総師範の資格取得。ヨガインストラクターや結婚式の司会、遠藤周作の劇団に所属。 29歳で独立、大阪で「ナウ・マナーズ教育センター」開設。中小企業やサービス業、医療関係、行政などでビジネスマナー等の指導、大学・専門学校等での講義、講演活動などを行う。 45歳で関西大学社会学部「社会心理学」の社会人枠で 2年学び、産業心理カウンセラー資格取得。 57歳で長浜市に戻り、親の介護をしながら仕事を継続。趣味で栄養学をベースにした料理教室を 15年間続け、受講生の子どもにアレルギーがないのが自慢
◇ Facebook: https://www.facebook.com/sumiko.fujii.3