男性不妊の先にあるカップルを支えたい。
国内で民間初の精子バンクを設立。
2021年6月、日本で初めてとなる民間の精子バンク「みらい生命研究所」がスタートしました。所長の岡田 弘さん(67歳)は長年、男性不妊の最前線で治療にあたってきた泌尿器科医。近年、インターネットで精子が取引されている状況に危険を感じ、見過ごすわけにはいかないと立ち上がりました。
男性不妊症とその先の選択
日本で不妊治療や検査を受けたことのあるカップルは5.5組に1組、不妊を心配したことがあるカップルは3組に1組に及びます(*1)。2022年4月からはこれまで自費診療だった人工授精、そして高額な治療費の体外受精・顕微授精が保険適用になり、話題になっています。
岡田さんは40年以上にわたり、泌尿器科医として男性不妊の治療に取り組んできました。現在も獨協医科大学埼玉医療センターの生殖医療部門であるリプロダクションセンターでゼネラルマネージャーを務め、男性不妊患者を診察しています。そもそも男性不妊とは?
「女性側に不妊原因がない場合、元気な精子の数が十分にあれば妊娠の可能性は高いのですが、精子の数が少ない、運動率が低いなど、自然には妊娠しにくい状態が男性不妊です。射精した精液中に精子が1つも見つからない無精子症は、男性全体の1%、男性不妊患者では10〜15%を占めます。以前であれば自分の子どもを諦めるしかなかった状況でも、最先端の治療によって妊娠の可能性が広がっています」
それでも妊娠が望めないカップルには、夫婦ふたりの生活、養子縁組や里親、第三者からの精子の提供などの選択があります。
個人がインターネットで精子を取引
「日本で初めて提供精子による人工授精の報告があったのは1949年です。1965年頃には年間1531例のAID(非配偶者間人工授精)が行われていました。その後は減少し、現在、日本産科婦人科学会に登録があるAID実施医療機関は12施設です。精子提供者が減り、ご夫婦がAIDを望んでも、治療までに時間がかかっています。また、精子提供者の確保が難しく、新たな患者の受け入れを中止する施設もあります。需要と供給がマッチしていない、精子不足の状態です」
こうしたなか、登録施設での治療を受けることなく、インターネットで精子提供者を探して、直接、個人で取引をする人たちが現れました。しかし、ここには大きな問題が潜んでいると岡田さんは言います。
「まず、衛生面や安全性などが担保されていないことが問題です。また、精子提供する男性がなんらかの感染症にかかっているかもしれませんが、その検査をしているのか? 精液をそのまま女性の体内に注入すれば、女性が感染症に侵されるおそれもあります。そして、本人確認や渡された精子が本当にその人のものだと確認することができません。
このようなリスクを負ってでも『早く妊娠したい、子どもを持ちたい』という切実な思いが背景にあるともいえます」
精子提供の実態を調査
そこで岡田さんは、インターネットによる日本の精子の授受について調査しました。
検索エンジンで「精子提供者」「精子バンク」「ボランティア」などで検索し、連絡先や代表者・メールアドレスの公開・契約書や誓約書の有無などを詳しく調べたのです。
「精子提供者の情報では、特に感染症検査に着目しました。妊娠の継続に影響する感染症や、生まれた子どもに引き継がれる感染症もあるからです。しかし、記載のないHPがほとんどで、記載があっても、どのような検査をいつしたのか、具体的には記されていませんでした」
精子提供者の情報を調べていくと該当した140サイトのうち、残ったのは11サイトとなり、さらに遺伝性疾患の記載がないところを外すと、5サイトに絞られました。
「調査の過程でトラブルとして浮かび上がったのは、学歴詐称や性行為を求めるもの。また、AIDを行ったことを夫の両親に話すと脅して金品を要求するケースもあるようです」
こうしたリスクの高い状況を看過できないと、岡田さんは日本では民間初となる精子バンク「みらい生命研究所」の創設を決意したのです。
当初、自身がゼネラルマネジャーを務めるリプロダクションセンター内に精子バンクを創るつもりだったという岡田さん。
「事業の特殊性、そして迅速に進めることを考えると、学外の別組織にするのが現実的でした。また、継続的な運営のためには他に頼らない独立した組織であることが望ましく、株式会社を選択しました」
こうして、2021年6月、埼玉県越谷市にみらい生命研究所が誕生しました。
安全な精子を届けるために
みらい生命研究所では、精子提供者(ドナー)の精子を採取して凍結保存します。その精子を提供するのは、日本産科婦人科学会に登録されたAID実施施設のみで、個人が精子提供を希望する場合は、AID実施施設を受診する必要があります。
ドナーには一定の条件が求められます。血液検査と感染症検査、精液検査を受けてもらい、適格となれば、半年後に再度、感染症がないかどうかを確認します。そうして初めて、提供するための精子を採取し、凍結に至るのです。
「感染症がなく、妊娠が望める数や運動率が十分な精子、つまり安全で良好な精子を確保するには、どうしても時間が必要です。当面、ドナーは医療関係者に限っていますが、この精子バンク事業が社会に認知されれば、ドナー希望者が増えると考えています」
精子バンク事業への取り組みを「最後のご奉公」と言う岡田さん。男性不妊で傷ついたカップルが、さらに苦しむことがないように。そして、未来を担う新しい生命の誕生をサポートするために。穏やかな表情から、揺るぎない情熱がほとばしります。
患者と医療をサポートする末梢血幹細胞バンク
みらい生命研究所では、末梢血幹細胞を凍結保存する末梢血幹細胞バンク事業にも取り掛かり、そのための準備を進めています。
これは、多発性骨髄腫や悪性リンパ腫の治療で大量の抗がん剤投与の治療をしたあとに、あらかじめ採取しておいた自分の末梢血幹細胞を点滴する自家末梢血幹細胞移植という治療に対応するもの。通常1回の末梢血幹細胞採取で、複数回移植可能な数の造血幹細胞を獲得できます。余剰の幹細胞を凍結保存しておけば、将来、血液幹細胞移植が再度必要になった時に、この凍結保存してあるものを使用するという考え方です。
「病気の再発に備えて自家末梢血幹細胞を凍結保存できれば、将来の治療の選択肢が広がります。しかし、自家末梢血幹細胞は一定の環境で適切に管理する必要があり、スペースの限られた医療機関では将来のための長期保管が難しいのが現状。保管を外部委託することで医療機関の負担が軽減され、患者さんにとっては将来に備える一助になります」
獨協医科大学埼玉医療センターの院長も務め、医療の課題も可能性も知り尽くした岡田さんだからこその発想。生命のはじまり、そしてたとえ病気になっても未来への不安を和らげ、心豊かに人生を送ることができるように。そのために医療をサポートする取り組みは、まさに可能性を未来へつなぐ架け橋です。
岡田 弘(おかだ ひろし)
神戸大学医学部卒業。泌尿器科医として4 0余年にわたり、男性不妊の最前線で治療に携わる。特に無精子症に対する最先端治療の MD-TESE(顕微鏡下精巣内精子採取術)では日本で最も症例数が多く、射精障害など現代特有の男性不妊症のパイオニアでもある。 2018年獨協医科大学埼玉医療センター病院長、 2020年獨協医科大学特任教授・学長補佐、国際リプロダクションセンターチーフディレクター。 2021年株式会社みらい生命研究所を設立。
◇みらい生命研究所 https://miraiseimei.co.jp
◇男性不妊バイブル(オフシャルサイト) http://maleinfertility.jp
*1:国立社会保障・人口問題研究所「第15回出生動向基本調査」より。